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清里のペンション

私がなぜ清里でペンションをなのか
清里のペンションの発展と凋落から見る
       


 

私が「清里」と言う名前を始めて耳にしたのはキット中学生の時であったと思われる。

中学の卒業記念に小海線の旅をしてみようとの計画を友人とたてた。残念ながら、この卒業記念の旅行は実現しなかった。しかし小海線の旅に清里・野辺山は出てきたはず。

次に清里という地名を耳にしたのは、大学に入った最初の夏である。

その時、夏休みのアルバイトで当時の赤岳石室(今の展望山荘)にいた。赤岳石室は八ケ岳の尾根で主峰赤岳の直下海抜2,700mにある。ここは大方雲海の上。岳人の世界、格好つけると仙人の世界のようなところであった。

ある日、バイト仲間の一人が東に向かって喋り始めた。
「この下に清里というところがあって、それはいい所なんだ。清泉寮というクリスチャンのキャンプ場の様なものがあり、後は牧場が沢山あり、実に長閑な所だ。」

「そんな所に、何をしに行くの?」

「大方の人が、朝一番の列車で着いて、飯盛山にハイキングに行くのが目的」

「どの山が、飯盛山?」

「あそこにある頂上の丸い山だ」と丁寧に下界の取るに足らない山の稜線を辿り教えてくれた。

私は「なんだ、あんなの只のハイキングコースじゃないか。くだらん山だ」

「だから、ハイキングと言ったじゃないか」と憮然とした顔をして、私を睨みつけた。

その当時、登山道にクサリ場の一つも、また梯子段の一つもない山なんて、山ではないと粋がっていた。

その年の秋、私は一人で蓼科山には入り途中、人一人いない雨池を経由しジグザグに南方面に縦走した。、山小屋に泊まる金もない学生の身分、ビバークをしたりして、何日目かに石室に着いた。時間は午後3時を過ぎていたと思う。小屋の番頭さん格のKさんは当然「泊まってけや」である。

しかし、夏に聞いた清里を見たくて、又京都で待っているある人に紅葉の山行の報告をしたくて、急いで降りることになった。

石室で少々話し込みすぎたか、出発は5時近かったかもしれない。

石室から赤岳の頂上直下をトラバースして県界尾根に向って、尾根を下りて美し森までのコースは下り約3時間であったはず。

夕暮れ時から山を歩く者の常として、懐中電灯はギリギリまで使わない。山道が見えなくなるまで我慢をする。転げ落ちるように下った。

途中の林業小屋のオッチャンが「兄ちゃん、もう直ぐ真っ暗だぞ、泊めてやる。金などいら」

「いや、なんとか最終の列車に乗りたいのです。」

「今からじゃ、無理だよ」

「4時○○分に石室を出てきたのですが?」

(机の中の古い山日記の中に参考資料として記入してあるのを見つけました。
赤岳石室発午後4時55分→美し森7時35分との記入あり。ある年の10月参考資料なので日付なし。どの程度の暗闇かわからず。石室からトラバースして県界尾根を下るコースで所要時間2時間45分は私の足にしてはかかり過ぎ。暗闇だったのでしょう。)


「エレー早いじゃん。その分だと最終に間に合うかな?怪我せんように、下れや。駄目なら、その格好だ、駅で寝ろッ。どうせ金ねんーだろ」

完全な山道の中、美し森についた。

美し森から駅への道は砂利道。しかし夏の夕立にあった後の形跡で、道はグネグネ曲がった掘れ溝だらけ。登山靴を履いていても、真っ直ぐに歩けない。右に飛んだり、左に飛んだり。サーカスか忍者の様にしか歩けはしない。真っ暗な中歩いていると、後から一台のトラックがやってきた。

荷台の乗っていた、土木作業のオッチャンの中の一人がまたもや「おいッ、そこの若いの、駅だろう。乗ってけや」ブッキラボーだったけれど、親切に声を掛けてくれた。

慣れぬ、荷台の上にしりもちを着いて乗るが、ガタガタしてとても乗り心地の良い物ではないが、最終列車に間に合うとの気持ちからか?それとも京都で待つ人に明日逢えると思ったのか?安堵感からか、荷台が木の床のトラックではあったが実に快適だった。

駅に着いたが、まわりには少々の灯りだけ。回りにはその日の店を閉めた土産物屋と民宿らしき家が数軒あったか様な記憶がある。

国鉄の清里駅で最終の時間を確かめ「時間は充分ある。うどんでも食べえるか」と入った一軒だけ灯りに付いたお店屋さん(今の峰の茶屋か)。

食べたうどんの味は関東風の濃い味だったか、実に美味かった。

空き腹に一杯のうどんは確かに満ち足りた気持ちになった。

その頃の心境はばら色だった。

しかし、翌年の私は一つ裏切りで失意の中、八ヶ岳に入った。5月の連休が明けて暫らく経った頃、茅野経由で北八ヶ岳の竜源橋から亀甲池を目指し入った。南に向って縦走。懐かしの赤岳石室には入ったら、前年のアルバイト仲間が二人と始めてみる同年輩の山男がいた。私は軽く気晴らしの心算で入って、直ぐにでも山を降りる気でいったのだ。
そこで、偶然と言えば偶然過ぎる出会いがあった。その様な事、小説にして書けば、「読者を馬鹿にするな」と言われそうな偶発的な出来事に、自身、こんな偶発的で奇怪な出会いで自身の運命を変えられるまいと気持ちをシッカリ持ったはずだったが、その後の経過事実はそうはいかなかった。

山小屋の側には、ピッケルで滑落を止める練習に格好の雪渓があった。朝から夕暮れまで何度も練習。私の右の額には直ぐに擦過傷ができ、何時しか血が流れ落ちていた。自虐的であったのだろう。

そんなあるに日の夜、一つの議論が持ち上がった。

「どだい、ピッケルを持つような環境では当然アイゼンもいる。ピッケルだけを持つのは滑稽だ」奇妙な事を言い出す一人がいた。

「そんな事はない。アイゼンを必要としなと頃でも、ピッケルは持っていた方が良いケースは一杯ある」

「そうだよ、グリセードはどうなるんだ」

議論はアイゼンとピッケルはおみきどっくりの意見を押さえ込む形でおさまった。

しかし、アイゼン・ピッケル両立論のバイト君は承服しかねる顔で、不満げだった。

そんな、議論の夜のあくる朝、小さな事件が起きた。

私の居た山小屋に泊まった京都のある大学のワンゲルのパーティ十数人。女子学生が半分以上占めるパーティー。自炊道具を持っているのに山小屋泊まり。有り体に言えば「チンタラムードのグループ」である。その大学のワンゲルパーティーは小屋に泊まったあくる朝、清里に向って降りていた。県界尾根にトラバースする場所で雪渓が有った様子。その最初の雪渓で滑落事故がおきた。パーティの一人が小屋に駆け込んできた。

「パーティの一人が雪渓で滑落しました。救援をお願いします。」

私を含め、三人の小屋番がザイルと二本のピッケルをもち飛び出した。

現場に着き「何処に落ちた?」

パーティのリーダー格の一人が「あの・はいまつ林の中です。」
雪渓を300メートルぐらい下り、若干右にそれた緑の這松の塊を指差した。仲間の一人がグリセードで下りかけた瞬間、落ちた本人が、這松から出てきて大きく手を振っていた。

大した怪我はなさそう。

小屋番の仲間がリーダーに「あいつ、ピッケル使えるか?」聞いた。

「無理でしょう」

「シャーねーな、面倒だけど、持たせるか」

小屋番が一人ピッケルを背負い、「待っとれ」と大声を上げ、グリセードで滑落した本人のところへ降りた。

私ともう一人の小屋番は「運の良い奴だな、あの大きな這松林に落ちないで、反対の岩場に落ちて、下手したら即死だな」とかなり余計な感想を漏らした。

余計な感想が良くなかった。殆んどの女子学生が真っ青な顔色だった。

落ちた本人をトラバースし落ち始めた現場まで連れてきた後が面白かった。

「小屋に戻るか?」

「なんとか、清里に降りたいのですが」

「戻って、地蔵尾根を下って、美濃戸に降りた方が無難だぞ」

私は内心(好きにしたら)と何処吹く風。

雪渓を渡った連中とまだ渡らぬ学生と半分半分だったろうか。

余程清里が魅力だったのか、このパーティー連中。
リーダーの命令一発で決めろと活を入れたかったが、民主主義かねと冷ややかに見ていたが。
暫らく皆で相談の結果清里へ下るとの当初の計画通り。

この後、私以外の小屋番がどうしようもない女好きだったことは間違いない。

何箇所かの雪渓で、ザイルを張り、一人一人を下ろす羽目になった。

この下はもう雪渓がないと分かてる場所まで来たのに、「もう少し下まで見送るか?」である。

二人の助平根性の小屋番二人に、サッサト小屋にもどりたい私は着いていく事になった。私は昼間の清里を見てなかったので、清里見たさに気持ちが動いたのは事実だ。

途中で、この小屋番二人「パチンコ、やりてーな」である。パチンコの経験のない私は「久しぶりに、風呂に入るか」と(昼間の清里を見てないで)とひやかし半分で、清里に下山。

小屋番の一人が上諏訪にアパートを借りていたので、その晩はアパートに転げ込む事になたのだが、パチンコの資金を持っておきたかった二人の小屋番は「ヒッチハイクしよう」だ。

国道(141号)の道路端でヒッチハイクの車の物色を始めた。お風呂に入ってないのが僅か10日間(?)ばかりの私が一番綺麗だった。あとの二人は一月くらい風呂に入ってない汚い山男。
綺麗な私だけなら探せたのだろうが、あとの二人が付いていたのではどうしようもない。南に下り北に上がりしぶとくヒッチハイクの合図。

国道をあっちこっちうろつく私には、あの頃は国道に面してもまだ牧場もあったように記憶がある。

国道にはドライブインのハイカラな名前に相応しくない一軒の食べ物屋さんがあったかどうかもはっきりしない、何もなかったか?とにかく静かな所であった。

汚い三人組を乗せてくれる車なんぞも無かった。

場所を変えて、国道を下ってみたりするうちに、(これが清里の牧場か)と愛でることになった。元々、車の台数も話にならないくらい少なかった。結局止まってくれる車ゼロ。

仕方無に清里駅に戻って列車で小淵沢へ。車窓の牧草地は本当に穏やかな眺めだった。

失意の底ではあったがブルーな私の心を和ませてくれるのには十分すぎる景色だった。

 

おまけつき

二人の小屋番、夕暮れにパチンコ屋で、鉄の球を追いかけている最中、事もあろうに当時の赤岳石室のオヤジさんMさんにパチンコに夢中になっている現場を見付かったのである。

外に引っ張り出されこっぴどく叱られた様子。

田舎は狭い

 

二年後、「山小屋を持ちたい」と空想した私は4月から北アルプスのある山小屋に入った。

その小屋ではかなり自身では真面目に仕事をこなしたはずだが、思い切り辛酸をなめた。

人生の教訓「実現性のない夢なんて、単なる空想にしかすぎない。」

前年のやはり北アルプスの別の山小屋のバイトの頃から、山小屋主ないなりたいの空想は始まっていた。

 

その後、学園紛争の嵐が吹き荒れる中、山の中で人生観を変えられた結果、シッカリと「優」の数を稼ぎまくり卒業の時期を迎えることになった。

 

大学就職課の職員に「君ら哲学科の五回生にまともな就職あると思ってるのか、もっと真面目にやれ」と怒鳴られたにもかかわらず、就職試験は一社を受けるだけで一度でパス。

まわりの五回生諸君、それはそれは怒ってました。

「お前みたいに、大学に丸っきり出てこなくて、好きなことやってた奴が、何でこんな早い時期(6月)に就職決まるネンッ」でした。

会社では少しだけ変わりモンだった様子ですが、猛烈社員の典型例。私のサラリーマン人生は入社4年目を境に大きく変わっていった。

それまで、ひたすら夜遅くまで働いているのが、よいサラリーマンだあるとの上司の教えから抜け出し、と言うより呪縛から抜け出す機会を与えられた事によって変化を遂げていった。

勉強をしました。中小企業診断士の名を知ると同時に『ペンション』と言う宿泊施設を初めて聞いたのがこの頃だった。自分のやるべきなのはこれ(ペンション)だと直感した。

 

会社の中でも波乱万丈・千変万化・丁々発止のサラリーマン人生。

12年間の最後の2年は自身の激しい抵抗にもかかわらず、最後の大阪から東京への転勤。転勤の3ヶ月ほど後に、東京支社こぞっての慰安旅行があった。
場所は清里だった。家族も同伴可だったので大方100名近い大所帯。2軒の民宿に分宿。

そこで見たのは変わり果てた(?)清里。

あの15年ほど前に見た静かな山里は何処へ行ったのか?

清里駅から車で一分ほどの場所にあった民宿の周りと駅の周辺の変わり様には、ただただ驚き以外の何物でもない。その驚愕の感情はこの清里への三回目の訪問のほんの数年前、八ケ岳山中の麦草峠で味わった無念に同じだった。
私の知っている麦草峠は、八ケ岳の原生林を抜けると、一面熊笹の原。緩やかな斜面の下に夕餉の煙くゆるむ麦草ヒュッテがあった。蓼科山の下にある熊笹の原っぱ、天祥寺原も良かったが麦草ヒュッテの原っぱも大好きだった。何年か後、麦草峠に国道が不躾にも開通。会社の後輩Y君夫妻を案内し、蓼科山から麦草峠へ。しかし、そこには変わり果てた麦草峠があった。私は悲しさと悔しさからであろう、麦草峠のバス停を思いっきり登山靴で蹴っ飛ばした。

「二度と来ないぞ!」

またもや、清里駅をみて、麦草峠とへに怒りと同じ体験。一瞬体は固まってしまった。白い駅舎。凍て付く思いから気がついたら、その場にしゃがみこんでいた。夕餉の煙のなくなった麦草峠。その時と同じ心境。あの青春の清里は何処へ行ったの?山小屋風の駅舎はなく、緑の草原もない清里には用事はないの心境であった。民宿の庭から出ることなく、あくる朝、食事を済ませた後も外に出ることなく、一団の観光コースのワイナリーに向った。

その後、月によっては200時間近い時間外労働を自ら課するに至っていた。

守備範囲は西は新潟・長野・静岡、北は北海道まで。そんな中でも、仕事の関係上長野県への出張が多かった。面白いことにペンションを相手にする仕事も一部あった。多分100軒近いペンションを見る機会があっただろう。

そして東京に帰っては、僅かの休みを利用し、多くのペンションのデベロッパー(経営指導会社)を回った。

超過密な仕事をこなすと同時にペンションへの傾斜も徐々に進んだ。

少しは経営学の勉強をしていた私には数ある中で、経営指導会社の名に値するのは一社だけであったと感じられた。しかしその会社での中間搾取はあまりにも多額だった。

憧れの信州で随分あちらこちらで候補地を探した。が私がするであろう借入金の返済の目処が立つ場所には縁がなかったのだろう。

「清里で開業したら」との進めに、即座に答えたのは「冗談じゃないですよ。清里はもうない」であった。

「清里はもうない?どういう意味ですか?」

清里での私の学生時代の2回の思い出と、ほんの少し前(慰安旅行)にみた清里のギャップを話した。

その話し相手は誰だったか覚えていないが、明確に「貴方の過去のイメージと違い、変貌した清里は駅の周辺とその近くだけですよ」であった。

 

1976年に経営指導会社の名に値するA社は会社を立ち上げ、1979年に清里にA社傘下のペンションを開業。

翌年からある女性誌で大きくペンションを取り上げることになった。ある女性誌とA社との密接な関係の裏話はここでは省くが。
又別に多分
A社の力で、ペンションを舞台にしたテレビドラマ化が行われたかも知れない。

おそらくその直後であろう。昔話としてA社系のペンションの経営者から直接聞いた話だが「あの頃は夏休みの予約はゴールデンウイーク明けから受け付けていた。ゴールデンウイークの直後電話はなりっぱなし。3日間で夏休みの予約は全部終了だった」

私が独断で論じるに、ここで既に清里の悲劇の火種はあった。

大方がメルヘンチックなペンションが点在する清里はまさにペンションブームであった。

また私が断ずるに、このメルヘンチックが誤解の元になったのでは?
チックはかなり軽くまた馬鹿にした言葉だと思う。

最初、ブームの軽さから距離を置けば、真実清里の良さを生かしたロマン溢れるリゾート地になりえたはず。
この様に書きながらも、リゾート地と書くことにも抵抗がある。
リゾート地と言う言葉すら本来の清里の原風景に馴染まない気取ったと言うか、すまし込んだ呼び名なのだ。
今にして思い、もっと突っ込めば、清里の原風景にあった独自の道を歩めば、類い稀なる、心の安らぎと憩いの場を展開できたはずだ

一方、「貴方のイメージする清里のギャップがあるのは駅周辺とその近辺だけです。」と言われていた私は、一応隣の大泉村にも足を運んだと。
しかし清里と大泉は風景があまりにも違いすぎた。

何度も足を運ぶ中で見たのが、今のスケッチブックの立つ場所である。駅から離れた所では、私程度の経営学のセンスでは借入金の返済は不可能かもしれない。しかしまた私のペンションへのイメージには近い場所だった。確かに私の知っている清里の原風景があった、この場所には。

長野県でも色んな所で候補地を見て回った。その中で感じたことの一つ。この発言は決して許される事はないと思うが、原村に降り立った時、「このペンションの密集地に財産をなげうって事業を起こす勇気(?)のある人が百人以上も居るのだ?!?」それに近いものが、山梨県の大泉村でも感じた。「ここで、借入金を返し、自分のイメージする理想のペンション像は思い浮かばない。」

私は残念ながら数度の大泉への訪問で見切りをつけた。

しかし、一方清里のペンションの数はその時30軒近くであったと思う。こんな狭い清里地域で50軒もペンションが建てば、共倒れになるのではとも考えた。

しかし不思議な物で、今スケッチブックの建つ場所に私は吸い寄せられたのか?

いや私は「この場所には左右の土地に空きがある。駅からこれほど離れていたら、土地の値上がりはない。経営が軌道に乗れば、更なる借入金で左右の土地が手に入り、私の夢であるペンション像の実現が可能ではないか」がでも、大きなポイントで決断した。

一方、数あるデベロッパーとして値打ちのあるのはA社だけとも考えていたが。色んなことに自分の考えるペンション像とギャップがありすぎた。一番ギャップを感じたのは、A社の方の発言
「ペンションに、リピーターはいらない、一見の客で経営が成り立つ。利潤の出せる経営になれば良いじゃないですか」との一言。

女性の見方は面白いと思う。何度もA社に足を運ぶ中で、私の家内が面白い発言をし断絶の決め手の一つになった。「A社の社長、大層な発言を一杯されているが、昨日何処に泊まられたのか知らないけれど。スーツの袖口から見えるWシャツの袖口、随分汚れていたわよ。全財産なげうった上に大きな借金までしようとしている人に逢う時、あんな汚いワイシャツの袖口で、逢って話しするかしら?お父さんなら、コンビニにでも寄って、サイズが合わないWシャツでもいいから買うでしょう?綺麗なWシャツに着替えて、それから大切な話をするわよね?」と帰りの車の中で、私に呟いた。

個人で開業へと傾いていった。

ペンションの開業準備中の中でいろんな事があった。あって当たり前。

そして、今では笑い話にしているが、これだけ清里駅から遠い事に対する不採算性への数々の疑問話があった。

一番きつかったのは借入金の申し込みに行った政府系の金融機関で言われた内容である。

「あんた、ここで何やるの?」「ペンション?」「こんなに駅に遠い所でペンション出来ると思ってるの」

そこで、私は未来の構想を述べた。

「面白いこと考えるんだね?自己資金は?固く見てるんだね。随分切り詰めて計画立ててるんだね。その金額なら返済してくれるだろう。融資っ?するよ。出すよ」で決済。

1983年ようやく、開業にこぎつけた。

狭い清里にすでにペンションは50軒以上建っていました。

しかし、華やかな清里には似つかわしくない地味な建物での経営は当初の予想通りの困難が待ってた。

予想しなかった問題も随分あった。

苦労に苦労を重ね、どうにか税金を払えるようになったのは4年目であった。

そんな頃だったと思う。面白い話をする人が居た。A社系の中でも売り上げトップに入っておられるであろうペンションの方から聞いたら発言。

「最近自分は、友達に自分が『清里でペンションをやっている』と言うのが恥ずかしい」

私にはかなり不思議な発言と聞こえた。内心「貴方が、そんな今の清里のイメージ(メルヘンチック)を作った一人ではないのか?と感じたのは誤解だったのか?この人も別な理想を描き自身のポリシーにしたがって、経営を進めて行きたいと思われていたのか?」と思う半面、「時代はそこまで来たのか?」と厳しさを感じた。

確かに、清里へ評論家を招いて聞いた話

「清里の現状。凄い事です。これを仕掛けた人が居たら相当な手腕の持ち主。しかし今後は危険がいっぱい。大変な事になる。」

私はその評論家先生に「どうすればいいのですか?」と質問したら。

「それは自分達で、考えて下さい」ときた。

どだいこの程度の低レベルの評論家先生も清里へ来て何か喋れば金になる。

私自身、1980年代後半にかなりの危機感をを持っていた。

私の危機感はハッキリしていた。

「清里の隆盛はタナボタ。役場は何もやらない。観光行政0 このままでは清里の凋落は明白」であった。

私はある時、山梨県のペンション経営者全体の集まりで簡単な講演をすることになった。

「皆さん、今、清里のペンションを強力なライバルと思っておられるでしょうが、ご心配なく。直ぐに清里は落ち込み、ライバルに値しなくなりますから。役場の態度見てればわかりますよ」と観光行政のあり方を語った。

マスコミに持ち上げられた清里は、今度はマスコミから、攻撃の良い材料。

「清里、危ない、危ないよ。」である。不安を煽る。

最初は多分、低レベルの評論家先生が。今後の清里への進言案なくして、「このままでは拙い」であったのでは。

しかし、観光行政の消極さには、ペンション経営者の態度にも一因あった様に思える。。

1990年代初頭には、ペンションスケッチブックは巨額の所得税を払っていた。

私が巨額の所得税を払っていることを、自身でひけらかしたのではなく、ある会話から判った事実。

清里のあるペンション経営者が「Bペンション夫婦、年間所得税○○万円だって、凄いよね。稼いでるね」

横で聞いていた私、心の中で(内の方が多いのだけど、所得税)であった。

すると横から別のペンション経営者「ペンションで税金払うなんて、馬鹿だよ、馬鹿」である。

内心(こんな経営者が居るから、役場が相手にしないのだではないか。ペンションなんて、と同時に自身の所得税払いすぎかな?の疑問)である。

この前後、ある年の春、甲府で山梨県のペンション経営者が集まる会の総会で出ました。

清里の隣の大泉村のあるペンション経営者の発言「我々は、決して、清里みたくなりたくないと常々思っています」

清里みたく?一流の軽い表現。「ミタク

酒を飲んであざける時にでも使う軽い表現。キチットした真剣であるべき総会では、適確な表現方法ではないと内心思っていたが。がしかし、その場で反論すれば、子供の喧嘩になる。

この頃あたりからであろう、清里は良くも悪くも常に注目の的であった。
確かに大泉は大泉独自の良さを前面に出し、清里の真似をするべきではないことにも一理ある。
大泉独自に良さを大切にすれば、清里化を阻止すれば、それなりに生きる道はあったのであろう。
多分、大泉に独自性を貫き、良いペンションが今も存在すると信じるが。

清里の凋落が始まった頃でも幸いにも、清里のペンションでは採算が合わなくなっての廃業ペンションはなかった。

しかし、隣の大泉村では確実に採算が合わなくなっての廃業ペンションが出始めてた様だった。

廃業ペンションが出始める前に、集客が落ち、採算性が悪くなる傾向は大泉が先でその後を確実に清里がおっているように見えた。

大泉の方は「清里見たくなりたくない」であったであろうが、私には大泉の後を追うがごとき、清里の傾向に憂慮があった。

現実に幾つものあるテレビ局が「清里のペンションの廃業」と題して報道番組を編成してテレビに流す。

テレビをあまり見ない私、放映後に「清里のペンション廃業続出」の番組をある人から聞き、不審に思った。

件のテレビ局に電話をし糾してみた。もちろん私は自分が誰かであることを正しく名乗りである。

聞いた結果「その実例のペンション、総て大泉のペンションじゃないですか?」と私。

取材の局員「あれは清里では。オオイズミ?おおいずみって何処ですか?あそこは清里でしょ?」

だいたいテレビを含めマスコミの連中の知識ってこの程度のが結構居るのです。
結局「ペンションのブームに思いっきり乗った清里のペンション廃業続出」の方がインパクトが強いがテレビ番組編成の局員の本音だろう。

ただ、ペンションスケッチブック自体、1986年のテレビドラマの本格ロケ地になって以来、かなりの回数、テレビに露出していましたが。

話飛びますが、2000年にオウム真理教が清里の廃業ホテルの競売物件を落札し、大騒動になりました。

新聞の見出しに、それも地元新聞に「清里の廃業ペンションの物件・オウム真理教落札」

オウム対策委員の一人でであった私、地元新聞に電話。詳しく説明したが、取材記者は理解できない風であったというより、「清里の廃業ペンション」のほうが都合よかった風であった。

良きにつけ、悪しきにつけ、清里のペンションは注目度かなり高い。

一方、大泉は?「オオイズミって何処」「西部池袋線に大泉学園って駅あるけど?」と言う程度の知識の人が居たりする。

こうなると、インターネットで出来る限り、検索サイトで上位に載せるには、「大泉」だけでなく、「清里」の地名を冠した方が良いのは歴然。

マスコミの連中ですら、大泉と清里をごっちゃにする。大泉という地名すら知らない連中が多々。

 

ここで、清里の歴史と地理の薀蓄

明治の初頭、今の清里樫山地区に「清里村」の名前がはじめて出てくる。

この村はどちらかと言うと山間の貧しい村であった。

しかし、隣の大泉村は豊であった。

農作主体の時代として、海抜の低い大泉村では、米農家が成り立っていって、清里村より豊。

聞きおよぶに、清里村は何度かに分け(?)、海抜の高い地域を大泉村に売り渡したそうだ。

本来、村境は八ケ岳の天狗尾根の下の沢から流れてくる川俣川にあるのが自然なのである。

しかし、川俣渓谷に小海線が通る辺りから突如真北美し森に向って、直線に清里と大泉の村界が引かれている。どうでもいい事なのでしょうが。やはり不自然。

 

清里を世に知らしめたのはポール・ラッシュ博士であろう。関東大震災後の東京復興に駆けつけた(1925年)ポール・ラッシュ博士は1938年に食糧・信仰・保健・青少年教育との四つの理想を掲げ、清里にキープ協会を設立。このクリスチャンのキャンプ場として候補地に富士山が見えることの条件があった。又清里の地名=清い里に引かれ、ここ清里に清泉寮を建設した。彼ポール・ラッシュ博士は1979年に没するまで八ケ岳南山麓で彼の理想をを実践すべく行動されたのだが、間違いなく清里を愛されたと思われる。

ポール・ラッシュ博士の残され名訓

Do your best and it mast be first class

アメリカンフットボールを日本に最初に紹介されたとも言われている。

「少年よ大志をいだけ」のウィリアム・クラーク博士は日本滞在期間九ヶ月。

ポール博士は太平洋戦争の一時期強制帰国を除いても50年近く日本に在住。大半は清里を愛し、かの地に没される。

 

1938年に小河内ダムに没する丹波山・小菅村の住民28戸62名が念場ヶ原(現清里川西地区)に入植。戦後清里樫山地区浅川地区の農家の次男・三男が中心に念場ヶ原に開拓の為入植。当時清里村の中心(村役場の所在地)は樫山地区であった。が念場ヶ原(今の清里と称される地域は開拓者の血と汗の結晶となった念場ヶ原の耕作地は清里のイメージを醸し出し川西五地区であり、他所の地域ではない。但し1956年清里村は弘法の坂下高根村に吸収合併されたが。

(ただ、大泉にも開拓地があったが)

 

突然、話を逸らすようですが、これはペンションだけに限ったことではないのですが、コマーシャルは大袈裟な表現や虚偽の表現が多い。インターネットにいたっては嘘のつきたい放題とまで行かなくても、かなり首を傾げる表現が実に沢山ある。大泉の観光施設がきわどい表現で「大泉の‥‥‥」と掲載するだけに留まらないで「清里の‥‥‥」との冠をつける。清里の観光施設は大泉を名のらない。大泉のそれは清里をも二股にかける。これは私には『騙』りに見える。

どだいマスコミですら(?)大泉と清里を混同する手合いがいるのだから、インターネットで大泉と清里の二股表現は、各検索サイトの検索ロボットに見分けがつくわけでなしと言う所でしょうか。

元々、清里は高根町の一部。町村合併で高根町・大泉村・長坂町・武川村・白州町・須玉町・明野村が合併をし2004年に北杜市になった。その後小淵沢町も合併。

だから、大泉も清里も一緒じゃないかとの説。今一部に清里も大泉も同等と考ええる動きがありますが、私には疑問に思えます。

私の場合は学生時代の清里への思いから始まってペンション開業へのプロセスと「清里みたくなりたくない」の背後関係からでも、清里と大泉は別個の地域と考えるべきと今でも思っています。大泉の観光施設が清里を騙るのは問題ありです。もっとも明確にすべきは清里は歴史背景からみて樫山地区浅川地区+川西五地区(念場ヶ原)である。

 

歴史を粗末にし清里の地域の拡大を画策するは愚かな行為。

京都を見よ。京都は歴史を大切にし地名変更等には頑固な抵抗がある。

歴史と伝統を大切にするから、今の京都がある。

歴史や伝統を少しでも学んだ人間なら、地名は大切なものだという事くらい直ぐ判る。

 

今、清里のペンションでは隆盛と凋落が真剣に議論の的になっています。

ここで又、私の開業当初から、大袈裟、いや虚偽ではないかの宣伝文句が飛び交っていたのも事実です。

特に、残念なのは「ペンションの宣伝文句につられ、期待して行ってみたら、ぜんぜん様子が違うではないか?がっかりだった」との声が結構あると言う事です。
多分に表現の自由なのか、宣伝文句の書き手と読む側のギャップなのでしょうか?

要するに、ペンション中には嘘をつき倒した人もいるみたい。そして清里は本来ある原風景になじまぬ「メルヘンチック」がドンドン前面に出てしまったのではと考えたくなるのは間違いなのか。そこに大きな誤謬があったんではないだろうか?

元々、ロマンチックとか乙女チックなど、チックは随分馬鹿にした表現なのではないか?

要するに偽者?

かなり以前から、私のペンションのお馴染みさんが、「清里のペンションスケッチブックへ行こう」と友人を誘ったら「エッー清里?ペンション?そん恥ずかしい所なんて行きたくないよ」と返事が返って来ると言われる。

来てみて、「清里にこんなペンションもあるのか?ビックリだな?考え直してみますよ」となる。

呼び方は適確でないかもしれないが、スケッチブックは硬派のペンション?

私は開設当初から、嘘や誇張のないようにを通してきた心算である。

総てのお客様のニーズに合わせられとは決して思っていない。

しかし、確実に『清里なんて』と『ペンションなんか』と言う一部にある駄目イメージが進んでいるのを払拭するのはキツイ。

「これほどまでに設備を揃え、庭もきれいにし、建物にも手を加えているのに、この程度の集客か?である。」

「清里」がまた「ペンション」が足引っ張っていると考え込んでしまうのは、僻みなのか?

しかし、私は大方の時BESTを尽くしてきた。只一流には遠かったかもしれないが。

ただ、厄介な病を得て急激に自身のペンションを駄目ペンションにしてしまった5年間は最悪だったのではあったが。

しかし、今は私の出来る限りの範囲で自己のベストを尽くし、又多くの方々にご支援を頂き、可能な限りより良いペンションへの道を歩んで行くよう心がけているつもりだ。

おそらくや、一部マスコミからみれば、清里のペンションの中に「元気印のペンション」なんてあってはならないとでも言うのか。

マスコミでは「清里のペンションは没落の危機の大前提」は消せないのではないのか?「駄目になった清里」「ペンションはみすぼらしい物の代名詞」がまずありきである様に見える。
この様なマスコミは一部であると信じたいが。

2005年春からのスケッチブックの歩みを見れば、一部マスコミの陰謀(?)を突き崩すプロセスを感じ取るであろう。

何時でもいらっしゃい。完璧ではないが、一部のマスコミの陰謀は崩してみせる。

それとも、マスコミでは「ペンション」なんて歯牙にもかけぬと言うことになるのか?

私は独自の姿勢でマイペースを貫き通すだけ。

ついでに、インターネットの検索サイトも失笑物!?!があるが。

皆さんテレビ・新聞初めコマーシャルの虚実を、番組・記事もふざけてるがあるのを見抜く真贋を身につけましょうですね。

もし、悪い物の代表として、清里を、清里のペンションを取り上げる風潮があるなら、その嫌な前提の一角を突き崩せるペンションであると頑張り続けるでしょう。

本来の清里の原風景を否定し、また履き違え、メルヘンチックが清里のペンションと位置づけたのが間違いの始まりであったと考えるのは、思い上がりであまりにも片手落ちなのだあろうか?

元気印で、例え妄想に近いものであっても経営の理想のペンション像を追い続けるドンキホーテが清里のペンションには居てはならないのか?

最後のまとめを、やるべき事を箇条書きにすれば良いのかもしれないが、熟読して頂ければお判り頂けると思いこれ以上しつこく書くのはやめます。

しかし、他の地域名を騙る行為はやめるべきで、マスコミも、インターネットの検索サイトからも排除する事は直ぐにでもできるのではないでしょうか?

特に大泉は大泉の独自色を大切にするべきではないのか?
ブームに乗った、尻馬に乗り空騒ぎをした大泉の観光施設があったとするならば、かなり危険な行為ではないだろうか?

 

 

        清里 ペンションスケッチブック 中口勝功

                    sirius@comlink.ne.jp

 

この文章にあきらかな誤りがあり、ご指摘いただくなら、真摯に受け止め熟慮し訂正を行いたいと思います。

今一度、清里のは本来あるべき姿を見直し、ペンションの良さともう一度アピールするペンションを増やし、ペンションの位置づけを上げていきませんか。

 

誤字脱字また不適格なる表現の修正ほか推敲は重ねていきます。