私が「清里」と言う名前を始めて耳にしたのはキット中学生の時であったと思われる。
中学の卒業記念に小海線の旅をしてみようとの計画を友人とたてた。残念ながら、この卒業記念の旅行は実現しなかった。しかし小海線の旅に清里・野辺山は出てきたはず。
次に清里という地名を耳にしたのは、大学に入った最初の夏である。
その時、夏休みのアルバイトで当時の赤岳石室(今の展望山荘)にいた。赤岳石室は八ケ岳の尾根で主峰赤岳の直下海抜2,700mにある。ここは大方雲海の上。岳人の世界、格好つけると仙人の世界のようなところであった。
ある日、バイト仲間の一人が東に向かって喋り始めた。
「この下に清里というところがあって、それはいい所なんだ。清泉寮というクリスチャンのキャンプ場の様なものがあり、後は牧場が沢山あり、実に長閑な所だ。」
「そんな所に、何をしに行くの?」
「大方の人が、朝一番の列車で着いて、飯盛山にハイキングに行くのが目的」
「どの山が、飯盛山?」
「あそこにある頂上の丸い山だ」と丁寧に下界の取るに足らない山の稜線を辿り教えてくれた。
私は「なんだ、あんなの只のハイキングコースじゃないか。くだらん山だ」
「だから、ハイキングと言ったじゃないか」と憮然とした顔をして、私を睨みつけた。
その当時、登山道にクサリ場の一つも、また梯子段の一つもない山なんて、山ではないと粋がっていた。
その年の秋、私は一人で蓼科山には入り途中、人一人いない雨池を経由しジグザグに南方面に縦走した。、山小屋に泊まる金もない学生の身分、ビバークをしたりして、何日目かに石室に着いた。時間は午後3時を過ぎていたと思う。小屋の番頭さん格のKさんは当然「泊まってけや」である。
しかし、夏に聞いた清里を見たくて、又京都で待っているある人に紅葉の山行の報告をしたくて、急いで降りることになった。
石室で少々話し込みすぎたか、出発は5時近かったかもしれない。
石室から赤岳の頂上直下をトラバースして県界尾根に向って、尾根を下りて美し森までのコースは下り約3時間であったはず。
夕暮れ時から山を歩く者の常として、懐中電灯はギリギリまで使わない。山道が見えなくなるまで我慢をする。転げ落ちるように下った。
途中の林業小屋のオッチャンが「兄ちゃん、もう直ぐ真っ暗だぞ、泊めてやる。金などいら」
「いや、なんとか最終の列車に乗りたいのです。」
「今からじゃ、無理だよ」
「4時○○分に石室を出てきたのですが?」
(机の中の古い山日記の中に参考資料として記入してあるのを見つけました。
赤岳石室発午後4時55分→美し森7時35分との記入あり。ある年の10月参考資料なので日付なし。どの程度の暗闇かわからず。石室からトラバースして県界尾根を下るコースで所要時間2時間45分は私の足にしてはかかり過ぎ。暗闇だったのでしょう。)
「エレー早いじゃん。その分だと最終に間に合うかな?怪我せんように、下れや。駄目なら、その格好だ、駅で寝ろッ。どうせ金ねんーだろ」
完全な山道の中、美し森についた。
美し森から駅への道は砂利道。しかし夏の夕立にあった後の形跡で、道はグネグネ曲がった掘れ溝だらけ。登山靴を履いていても、真っ直ぐに歩けない。右に飛んだり、左に飛んだり。サーカスか忍者の様にしか歩けはしない。真っ暗な中歩いていると、後から一台のトラックがやってきた。
荷台の乗っていた、土木作業のオッチャンの中の一人がまたもや「おいッ、そこの若いの、駅だろう。乗ってけや」ブッキラボーだったけれど、親切に声を掛けてくれた。
慣れぬ、荷台の上にしりもちを着いて乗るが、ガタガタしてとても乗り心地の良い物ではないが、最終列車に間に合うとの気持ちからか?それとも京都で待つ人に明日逢えると思ったのか?安堵感からか、荷台が木の床のトラックではあったが実に快適だった。
駅に着いたが、まわりには少々の灯りだけ。回りにはその日の店を閉めた土産物屋と民宿らしき家が数軒あったか様な記憶がある。
国鉄の清里駅で最終の時間を確かめ「時間は充分ある。うどんでも食べえるか」と入った一軒だけ灯りに付いたお店屋さん(今の峰の茶屋か)。
食べたうどんの味は関東風の濃い味だったか、実に美味かった。
空き腹に一杯のうどんは確かに満ち足りた気持ちになった。
その頃の心境はばら色だった。
しかし、翌年の私は一つ裏切りで失意の中、八ヶ岳に入った。5月の連休が明けて暫らく経った頃、茅野経由で北八ヶ岳の竜源橋から亀甲池を目指し入った。南に向って縦走。懐かしの赤岳石室には入ったら、前年のアルバイト仲間が二人と始めてみる同年輩の山男がいた。私は軽く気晴らしの心算で入って、直ぐにでも山を降りる気でいったのだ。
そこで、偶然と言えば偶然過ぎる出会いがあった。その様な事、小説にして書けば、「読者を馬鹿にするな」と言われそうな偶発的な出来事に、自身、こんな偶発的で奇怪な出会いで自身の運命を変えられるまいと気持ちをシッカリ持ったはずだったが、その後の経過事実はそうはいかなかった。
山小屋の側には、ピッケルで滑落を止める練習に格好の雪渓があった。朝から夕暮れまで何度も練習。私の右の額には直ぐに擦過傷ができ、何時しか血が流れ落ちていた。自虐的であったのだろう。
そんなあるに日の夜、一つの議論が持ち上がった。
「どだい、ピッケルを持つような環境では当然アイゼンもいる。ピッケルだけを持つのは滑稽だ」奇妙な事を言い出す一人がいた。
「そんな事はない。アイゼンを必要としなと頃でも、ピッケルは持っていた方が良いケースは一杯ある」
「そうだよ、グリセードはどうなるんだ」
議論はアイゼンとピッケルはおみきどっくりの意見を押さえ込む形でおさまった。
しかし、アイゼン・ピッケル両立論のバイト君は承服しかねる顔で、不満げだった。
そんな、議論の夜のあくる朝、小さな事件が起きた。
私の居た山小屋に泊まった京都のある大学のワンゲルのパーティ十数人。女子学生が半分以上占めるパーティー。自炊道具を持っているのに山小屋泊まり。有り体に言えば「チンタラムードのグループ」である。その大学のワンゲルパーティーは小屋に泊まったあくる朝、清里に向って降りていた。県界尾根にトラバースする場所で雪渓が有った様子。その最初の雪渓で滑落事故がおきた。パーティの一人が小屋に駆け込んできた。
「パーティの一人が雪渓で滑落しました。救援をお願いします。」
私を含め、三人の小屋番がザイルと二本のピッケルをもち飛び出した。
現場に着き「何処に落ちた?」
パーティのリーダー格の一人が「あの・はいまつ林の中です。」
雪渓を300メートルぐらい下り、若干右にそれた緑の這松の塊を指差した。仲間の一人がグリセードで下りかけた瞬間、落ちた本人が、這松から出てきて大きく手を振っていた。
大した怪我はなさそう。
小屋番の仲間がリーダーに「あいつ、ピッケル使えるか?」聞いた。
「無理でしょう」
「シャーねーな、面倒だけど、持たせるか」
小屋番が一人ピッケルを背負い、「待っとれ」と大声を上げ、グリセードで滑落した本人のところへ降りた。
私ともう一人の小屋番は「運の良い奴だな、あの大きな這松林に落ちないで、反対の岩場に落ちて、下手したら即死だな」とかなり余計な感想を漏らした。
余計な感想が良くなかった。殆んどの女子学生が真っ青な顔色だった。
落ちた本人をトラバースし落ち始めた現場まで連れてきた後が面白かった。
「小屋に戻るか?」
「なんとか、清里に降りたいのですが」
「戻って、地蔵尾根を下って、美濃戸に降りた方が無難だぞ」
私は内心(好きにしたら)と何処吹く風。
雪渓を渡った連中とまだ渡らぬ学生と半分半分だったろうか。
余程清里が魅力だったのか、このパーティー連中。
リーダーの命令一発で決めろと活を入れたかったが、民主主義かねと冷ややかに見ていたが。
暫らく皆で相談の結果清里へ下るとの当初の計画通り。
この後、私以外の小屋番がどうしようもない女好きだったことは間違いない。
何箇所かの雪渓で、ザイルを張り、一人一人を下ろす羽目になった。
この下はもう雪渓がないと分かてる場所まで来たのに、「もう少し下まで見送るか?」である。
二人の助平根性の小屋番二人に、サッサト小屋にもどりたい私は着いていく事になった。私は昼間の清里を見てなかったので、清里見たさに気持ちが動いたのは事実だ。
途中で、この小屋番二人「パチンコ、やりてーな」である。パチンコの経験のない私は「久しぶりに、風呂に入るか」と(昼間の清里を見てないで)とひやかし半分で、清里に下山。
小屋番の一人が上諏訪にアパートを借りていたので、その晩はアパートに転げ込む事になたのだが、パチンコの資金を持っておきたかった二人の小屋番は「ヒッチハイクしよう」だ。
国道(141号)の道路端でヒッチハイクの車の物色を始めた。お風呂に入ってないのが僅か10日間(?)ばかりの私が一番綺麗だった。あとの二人は一月くらい風呂に入ってない汚い山男。
綺麗な私だけなら探せたのだろうが、あとの二人が付いていたのではどうしようもない。南に下り北に上がりしぶとくヒッチハイクの合図。
国道をあっちこっちうろつく私には、あの頃は国道に面してもまだ牧場もあったように記憶がある。
国道にはドライブインのハイカラな名前に相応しくない一軒の食べ物屋さんがあったかどうかもはっきりしない、何もなかったか?とにかく静かな所であった。
汚い三人組を乗せてくれる車なんぞも無かった。
場所を変えて、国道を下ってみたりするうちに、(これが清里の牧場か)と愛でることになった。元々、車の台数も話にならないくらい少なかった。結局止まってくれる車ゼロ。
仕方無に清里駅に戻って列車で小淵沢へ。車窓の牧草地は本当に穏やかな眺めだった。
失意の底ではあったがブルーな私の心を和ませてくれるのには十分すぎる景色だった。
おまけつき
二人の小屋番、夕暮れにパチンコ屋で、鉄の球を追いかけている最中、事もあろうに当時の赤岳石室のオヤジさんMさんにパチンコに夢中になっている現場を見付かったのである。
外に引っ張り出されこっぴどく叱られた様子。
田舎は狭い
二年後、「山小屋を持ちたい」と空想した私は4月から北アルプスのある山小屋に入った。
その小屋ではかなり自身では真面目に仕事をこなしたはずだが、思い切り辛酸をなめた。
人生の教訓「実現性のない夢なんて、単なる空想にしかすぎない。」
前年のやはり北アルプスの別の山小屋のバイトの頃から、山小屋主ないなりたいの空想は始まっていた。
その後、学園紛争の嵐が吹き荒れる中、山の中で人生観を変えられた結果、シッカリと「優」の数を稼ぎまくり卒業の時期を迎えることになった。
大学就職課の職員に「君ら哲学科の五回生にまともな就職あると思ってるのか、もっと真面目にやれ」と怒鳴られたにもかかわらず、就職試験は一社を受けるだけで一度でパス。
まわりの五回生諸君、それはそれは怒ってました。
「お前みたいに、大学に丸っきり出てこなくて、好きなことやってた奴が、何でこんな早い時期(6月)に就職決まるネンッ」でした。
|