佐伯富男さん
北海道大学農学部出身。後輩にプロスキーヤー三浦雄一郎氏がいる。
南極1次越冬(1957年〜1958年)隊員11人の1人。
ニックネームは「トンコ」
1990年61歳で逝去
私は1967年にお会いしました。富山県剱岳の劔沢小屋の当時小屋主だった佐伯文蔵氏の娘婿。
最初のお会いした時の印象は(意外と小柄で、愛嬌のある人)だった。「トンコ」の愛称で呼ばれるのが納得できる人だった。ご自分を決して飾ることはないが、無口ではなく結構多弁であった。話の一つ一つに説得力がある、やはり頭の良い人だった。しかし南極越冬生活の思い出を語られる時は、何かと言えば「俺みたいな馬鹿は‥‥‥」で始まるのでした。しかし富男さんくらいの話し振りでは、あの人が聡明である事くらい直ぐに判る。
それでいて「俺みたいな‥‥‥」と言われるのに決して嫌味はなかった。そこには愛称(トンコ)で呼ばれるに相応しいあの人の人柄から出ていました。
大学時代北海道の山で三浦雄一郎氏と尾根の上で相撲を取り、投げ飛ばしあって、咄嗟のピッケルワークの練習をした話を聞かされた時は、三浦雄一郎氏も名だたる冒険スキーヤーであると同時に富男さんも我々の想像をはるかに上回る、筋金入りの山男であるのを思うに余りある話だった。
南極の一次越冬隊の生活のご苦労を聞いた。富男さんは11人の決まった人数の中で外部との接触は通信と言う手段しかない中で、半年以上暮らす事の大変さを語っておられた。かなりインテリジェンスの高い人たちにとってそれなりの精神的疲労の蔓延する中、色んな方法で切り抜ける方法を取得するご苦労の話。そこで「俺みたいな‥‥‥」が出てくるのだが、富男さんの場合天性のおおらかさが、11人の男達が始めて極地で暮らす色んなストレスを跳ね除けていっておられたのでしょう。
その時(1967年ゴールデンウイーク)に、前年の暮から正月にかけ、関東の山岳会のあるパーティ(3人)が剱岳早月尾根の冬季初登攀を狙って行方不明になったのを仲間の同山岳会員が捜索に来ていた。彼ら関東の山岳会員の主張は「3人パーティのリイダーはヒマラヤ経験のあるベテラン。剱岳の登頂に成功し、立山方面に向けて下山する折に遭難」であった。捜索する範囲は頂上や早月尾根の反対側の劔沢方面を捜索されていた。
そんな中、富男さんは「劔の雪とヒマラヤの雪を一緒にしては駄目」と言っておられた。日本海で海の湿気を思い切り吸った雪雲が最初に劔にぶち当たり、思いっきりのドカ雪を降らせる。たとえ話として、一旦吹雪になると一メートル先も見えない。それでいて今落ちたばかりの足元の雷鳥の糞を遠くに見られるであろう山小屋の屋根と見間違えることすらある。「お前、池ノ谷を知っているだろう。何故池ノ谷と言うのか教えてやる。あそこの吹き溜まりは積雪40mも50mにもなる。そんな所に入っていけると思うか?入って行けけないよ。『行けぬ谷』が訛って『池ノ谷』になったんだ」
「劔の雪をなめちゃいけない。三人パーティの一人が頂上についているのが関の山。後は早月尾根から転落だね」
その様な富男さんの進言に対して、関東の山岳会員の皆は三人パーティを探す彼らの懸命の捜索は劔の尾根より東側を重点的に行っていた。「三人パーディーのリーダーはかなりの人で、仲間を見捨てて行動する人ではない。三人は同じ場所で見つかるはず」の願いもむなしく、連休も終わってしまった。連休を過ぎ半月以上経ってから劔の頂上直下で、登山者によって一遺体がが発見された。私は二名の山岳警備隊の警察官と遺体収容に同行をした。遺体を見て驚いたのは、アイゼンバンドがズタズタに切られていたことだった。
山を少しでも知ってる人なら、厳冬期の3000m級の山でアイゼンバンドが切る事は何を意味しているか判る。遺体発見と同時、山岳会の人達の剱岳頂上付近の大捜索が行われたが他の二名の遺体はなかった。結局他二名の遺体は又半月後に早月尾根から転落したと思われる位置で発見された。正に富男さんの指摘どおりであった。
私は7月の終わりにもK大学の医学部学生の遺体収容にも同行した。
その一方、私は山小屋番としてボッカに励んでいた。
ある日、富男さんは私を目の前にし「お前みたいな山登りをしてたら、山で死ぬ。山でなんかで死ぬな。お前は大阪出身だから『関西登高会』に入れ。俺が入れてやる」と言われました。我々関西の人間には関西登高会(当時現役の登高会の二人の推薦がなければ入会の許可は下りない)に入れるのは、凄く名誉な事だった。
それに対して、きちっと返事をしなかった私であったが、自分のような者が入会しなくて良かったと今にして思う。もし入会していれば富男さんの顔に泥を塗るような事になりかねなかった。
ある日こんな事もあった。私がボッカに出て小屋への帰り劔御前からチョットの下りで、16ミリカメラを持って雷鳥を追いかけている富男さんに出あった。
富男さんは「いいところ出あった。お前にトマトを食べさせてやろうと思って持ってきた。ザックに入っている。ザックを持っていってくれ。俺は雷鳥を追いかけて、後から小屋に行くから」だった。
小屋について富男さんのザックからトマトを見つけたのはいいが、何と富男さんの下着と一緒に転がり出てきた。それには参りました。しかしトマトはシッカリいただきました。
劔沢の小屋で一通り富男さんの行動を見てはいた心算ですが、ハッキリ言って、「富男さんほどの山男でもこの生活か???好きな山で過ごす人生は大変だ」の観想であった。
極めて最近NHKの新日本紀行が再放送(1970年版)されているのを見ていたら、富山県芦峅寺の山岳ガイドの話が放映されていた。
私は妻に「富男さんが出てくるよ」と言ったら、思った通り懐かしい富男さん顔があった。
内容は、私には、立山劔でも山岳ガイドとして生きていく厳しさを組んであった番組だが、その大半の中心が富男さんの姿に見えた。
自分の好きなことをして暮らしていける人は少ないのであろう。
61歳の他界は早すぎた。
多くの人に愛された、実に良い方でした。新聞で富男さんが亡くなられた報を見たときの悲しい思いは今も忘れられない。
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